2017年10月16日月曜日

慈悲の瞑想について

瞑想というもの

ツールとしての瞑想が流行っているような気がします。なによりマインドフルネスという言葉の流行もあって、多分瞑想は前より受け入れられているように思います。まぁビジネスの生産性を少しでもあげたい、っていう目的で瞑想をするのは本来の目的を結構損なっているようにも思うし、悟れないと思うんだけど、実際市井の僕たちが必要としているのは悟りじゃなくて生産性だったりしますよね。
ともかく、一瞬でも自分とつながるために、ここにいるために、自分の幸せのセンサーを開くために、自覚する筋肉を鍛えるために、瞑想は大事なツールです。
そして7つの習慣とかで喝破されていたのが、大事で緊急性のないことほどできないし、できないことが自分を苦しめるという人間界の心理。ライフスキルですね。
僕も例外ではなくdicipline無い界の代表くらい毎日継続したりコツコツやるのが苦手です。もう苦手すぎてこれ以上自分を傷つけたく無いので新しいことを始めたく無いくらい苦手。
そんな僕が瞑想を始めることになりました。 という話。前置きが長いですね。

慈悲の瞑想というのをやってみることに

色々な瞑想があって、詳しくないのだけど、師匠に言われて、慈悲の瞑想をやってみることとしました。慈悲の瞑想は簡単に言えば下記の言葉を落ち着いたポーズで言うだけ。簡単。 色々なバージョンがあるが、シンプルなのは下記でしょうか。上の句4✖️下の句5で合計20センテンス。ゆっくり言っても7、8分くらいでしょうか。

上の句

  • 自分が
  • 親しい人が
  • 生きとし生けるものが
  • 自分の嫌いな人が

下の句

  • 幸せになりますようにえ
  • 悩みが苦しみが無くなりますように
  • 願いが叶いますように
  • 悟りの光が訪れますように
  • 幸せになりますように

今のところ自分が思ったこと

まず「悟りの光が訪れますように」というところが一瞬抵抗がある。やっぱり宗教について抵抗あるんだな。悟りって多分宗教っていうより「あり方」なんだけど、社会的な文脈がそう思わせる。少なくとも隣の人が目をつぶってブツブツいって、「悟り」って言葉が聞こえたら席を離れる可能性がある。
面白いなとおもうのは、「生きとし生けるもの」のあとに「自分の嫌いな人」がくること。自分の嫌いな人は生きとし生けるものに簡単には含まれないんだな、という洞察がグッときます。生きとし生けるものの幸せを願うのは簡単でも、嫌いな人の幸せを願うのは大変。それが人間であります。
最後になんでこれが役に立つのかなーというところの今のところの仮説。これ脳みそを騙してるんだと思う。みんな自分の思考や価値観が先にあって、感情や行動があとにあると考えがちだけど、そんなことなくて、じつは混沌としている。僕の理解では、自分がかけているレンズや、発している言葉から脳みその方が学習するということも結構大きい。くわしくはポジティブ心理学とかみていただきたいのですが、例えば僕の大好きなこのTEDなど。
ショーン・エイカー 「幸福と成功の意外な関係」
要するに幸せになる筋肉を鍛えることで脳は騙せるし、幸せになれます。 という話でしょうか。とすると、願いを口にすることはすごい大きなことで自分の嫌いな人を見た瞬間に願いと頭の中で自動的につながるようにニューロン繋げることには意味があるんじゃないでしょうか。 とおもっている。
ま、すこし胡散臭く聞こえるかもしれませんがやってみて実験してみますね。

ちなみに自分にとっての宗教

じつは無神論者の自分としては、多くの人が科学的に確かめられていないことに自分の大事な価値や行動習慣、希望を頼るというのはほとんど苦痛です。
科学だって結局なぜそうなっているかわからないということが大変多いし、自分が最新の科学の知見を全部わかるわけではないから、結局自分個人にとっては超常的なものを信じている状態と何がちがうのか、 とか、 神の不在は証明できない、もしくは今後証明されるかもしれないじゃないかっていう不可知論的な話もなくはないのだが、ともかく「祈る」ということを日常に取り入れるスタンスではないですね。
ちなみに社会学的な知的好奇心としては、宗教が社会や個人にむけて果たす役割についてはかなり興味があるんですけどね。
ということでちょっと自分のcomfort zoneから出てみる話でした。

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