2018年1月11日木曜日

縦と横の多文化共生のための「謝る力」と「学ぶ姿」

世界を席巻するポリコレ、表面的な振る舞いを変えるだけでは解決できないこと

パワハラ、セクハラ問題、ポリコレのこと、例えば芸能界や角界の悪習が世間の目にさらされ批判されることなどがあちこちで起きている。

そんな中、自らを顧みることなく、どうやら安全な側・正解でいる側をいち早く判断して、他人を叩くための道具としてポリコレを活用しているような人になってしまわないように気をつけたいところである。残念ながらそういう誘惑は常にある。

そして人間の感情やもしかしたら生理的な嫌悪感のことを無視してポリコレであれば良いと蓋をすると、世界が分断化するのではないかという不安すらある。表現や差別的な言動というのはあくまでも表面的な兆しであって、その下にはそれが起きてしまう構造とメンタルモデルがある。

単に自分が無知だったため、知らずに人を傷つけてしまったことはきちんと謝って行動を改めれば良い。ただ正義によってはそう簡単には受け入れられないような鬱屈とした感情と向き合わなくてはいけないこともある。

それを紐解くには、自分が持つ抵抗感や嫌悪感と対峙することしかない。それが自分のトラウマだったり、親との関係だったり、シンプルな誤解(もしくはその間違いを認められない弱さ)に基づいていたりするわけだ。

残念ながらその紐解き作業は表現を規制したところで自動的に起こるわけではない。しかしその作業を進めていかないと「表面的にはおとなしくせざるを得ないが、まったく納得していないひとたち」が大量生産されるのである。

例えばその作業の中で自分のアイデンティティを脅かすような疑問すら出てくるかもしれない。あくまでも想像の事例だけども「自分がホモフォビアなのは自分のバイセクシャル性と向き合えないからではないか」とか、「セクハラに怒りを感じるのは、自分の性的衝動を我慢していることに向き合えないかもしれない」とか。その怒りは投影だったり、悲しみだったりする。

例えば「どうして自分はこんなに苦労をさせられているのに、あいつはずっと勝手なことばかり言っているのか」と怒りをもったとき、敵は自分の「苦労をさせられているという認識」という被害者性であって「あいつ」ではない。

本当に持続的な多文化共生社会は一人一人が自分の中の怒りや悲しみに折り合いをつけていく先にあるのではないか、と思う。

横の多文化共生。迫り来る正義を自分の体に通すということ

セクハラの撲滅やポリコレといったような水平的な文化同士の混じり合いはインターネットやグローバリゼーションの中で急速に起きている。ハリウッドでセクハラが断罪されれば、1年以内に日本でもそれは断罪される。少なくともセクハラは必ずなくならなくてはいけないことだから、この動きは僕も共感できることである。

ただ、セクハラがおきなくなっても、例えば男性一人一人の性的な衝動や抑圧感、性的な劣等感(というんだろうか、自分の男性としての魅力に対する劣等感)がなくなるわけではない。モテたいという感情、でも立場を利用して人を誘惑したりしては絶対いけない、という正義。人は感情の生き物なのだからこそ、そういう痛みを乗り越えて、理性で自分を乗りこなすのだ。

正義をアドボカシーすることは本当に大切だ。ただ同時にその痛みや感情に好奇心を向けられないそういう正義は単に人を追い詰めることになる。例えばこのまま表現の規制が進んだらどうなるんだろうという不安を消化するスペースがないまま、表現への過剰なダメ出しが進むことはいたずらに人を対立させる。アドボカシーのAGENDAが正しければ正しいほど、人にinquiryすることとのバランスに気をつけるべきである。それは最近下記の記事に書いてあることで、非常に共感した。

THE DAWN OF SYSTEM LEADERSHIP by PETER SENGE, HAL HAMILTON & JOHN KANIA

ルールが変わりつつあるんだよ。それは例えばアメリカでこういう表現が沢山の人をこう傷つけたから、意図はどうあれ結果としてその表現はもう許されないんだよ。 ということが、その人が受けいられるように伝えていく工夫が必要だ。受取手の過去を無邪気に断罪する正義の押し付けは、持続的な多文化共生を考える上で障害になると思う。

縦の多文化共生。変わり続ける世代のアタリマエ

もう一つの多文化はいわゆる世代間ギャップである。

女性の社会進出、人権思想や民主主義などいくつか市民権をえている思想が世の中を席巻して行く。ポリコレもそうだけど、15年前に許されていた表現が突然許されなくなることがある。その流れは基本的には不可逆である。正確にいうと、(カンボジアの中国化やなんか見ていると本当に不可逆かは疑問があるものの)その流れを不可逆にするために戦って行く人が多く、僕もその1人である。

その時代の断層が縦に積み重なって行く。同じ地域にいても世代間で文化が違う。

僕にとって身近な例で言えば、カンボジアの都市化・産業構造の変化なんかがまさにそれにあたる。都市化と工業化が進むから突然農村人口が減って行く。たとえ農村に残りたい気持ちはあっても、個人には抗えない大きな動きである。これからもっともっと核家族化や生産性の強化が進み人と人の距離は変わっていく。

カンボジア人が子どもに優しいのはいつまで続くか

たとえばすごく主観的な意見だが、今カンボジア人はすごく子どもに優しい。お店で赤ちゃんが騒いでも店員が楽しそうにあやしてくれる。(これはすごいことだ。赤ちゃんの泣き声っていうのはその本質からして不快に聞こえるようにできているわけで。)

その背景には、まず兄弟の人数が多く子どもの面倒を見ることが多くの人にとって当たり前であることや、農村の地縁の中でほかの赤ちゃんの面倒を見ることがあったり、はたまたサービス産業の生産性が厳しく問われていない中で暇な店員が多いということであったりに基づいているからかもしれない。

しかしそれはきっとこの先カンボジアから失われていく。

例えば「子どもをなぜ4、5人も産まないのか」と何気なく聞くようなカンボジアの文化は急速に失われている。それは都市部での出生率は急速に低下しているからだと思う。その背景には、みんなできれば高校、大学に入れたいと思い始めたことかもしれないし、女性の社会進出にあるかもしれない。ある程度当然の流れだし止める必要もない。

カンボジアを好きな1人の人間として、勝手に国の未来を想像して、郷愁を感じるという独り相撲だけども。一縷の望みとしては、産業構造の変化や人口の増減ということがあまりにも急速に起きていることと、他国の情報が本当にリアルに感じられるようになった現代においては、カンボジアは日本が辿った縦の変化を必ずしも経験する必要はないかもしれないということだろうか。

まずは謝る力、学ぶ姿勢を鍛えることから

カンボジアのシェムリアップという街に住んでいて感じることだが、縦と横の多文化共生が本当に急速に進んでいく世の中である。

まずその流れの中で自分ができることは何か。それは思うに「謝る力」と「学ぶ姿勢」を鍛えることではないだろうか。

「そんな意図はなかったのに」多文化のなかで人を傷つけてしまうことは残念ながら誰にでも起きうる。僕も沢山の人を傷つけてきたしまだ気づいていないこともたくさんあると思う。そんなときにきちんと謝れることが大事だと思う。それは下記の記事を見て学んだこと。

「それ差別ですよ」といわれたときに謝る方法(リンクを張ろうとおもったのだが非公開になってしまっているので辞めておく)

迫り来る正義や他人の価値観、そしてそこで感じる痛みや怒りから抉り出される自分の過去やトラウマ。それと折り合いをつけていくには、しっかりと目の前の人との人間関係を続けていきながら、学びを止めないことではないか。もちろん学びは1人で続けられるものではない。信頼できる人やコーチと少しずつ進めていくのだ。

友人の皆さんへ。自分が何か間違った振る舞いや表現をしていたらどうか恐れずそれを指摘してほしい。僕には学ぶ力がある。少なくとも、自分は学べると信じることはやめない。

願わくばより持続的な多文化共生が進んでいけるように、一人一人に寄り添ったり学びを続けていく流れを加速させていきたい。それがライフスキル教育を進めていく僕の願いでもある。

2018年1月7日日曜日

宝物はなんですか?

「青木さんの宝物はなんですか?」

スタディーツアーで来た高校生と語り合う時間の中で、こんな質問をもらった。何気ない質問かもしれないが、なんとなくその時の自分に刺さったのでメモ。

まず頭に浮かんだのは娘のこと、家族のこと。まぁベタですが自分以外で自分の本質を大事にしてくれる存在ということでしょうか。

ただあまりそれ以外浮かんでこなくてそもそも「宝物」というメタファーが持つ、何かを所有していてそれに感謝する という感覚があまりないんだな、と気づいた。

面白かったので色々と考えてみたら次に出て来たのは

  • 自分の親が自分を愛情を持って育ててくれたこと、呪いをかけなかったこと
  • 周りにいる人たちが人間として僕を大事にしてくれていること
  • 生まれた場所が安全で思う存分学べる環境があったこと

とかであった。「自分の努力や選択ではない範囲で」「他の人にとっては当たり前ではない環境」についての感謝ですね。

今が宝物です

最後に浮かんで来たのは、今この瞬間(その時であれば高校生と話している瞬間)が楽しい、ということだった。全てに感謝、みたいになるとちょっとポエムな感じでこっぱずかしいんだけども、割とありがたいとおもっている。

今この文字を打っている瞬間も僕の細胞は分裂をしていて、DNAはコピーを続けているということ。僕が凹んでもなんで生きているんだろ、とか悩んだとて、勝手に生き続けようとする体。それは僕が努力していないにもかかわらず、当たり前ではない環境として与えてもらったまず最初のかけがえのないものですね。僕の意識にとっては。

前に倒れそうになったら自然と足が出る、ということ

どこかで書いた気もするのだけど、僕の小学校の校長先生(だったか教頭先生だったか)が生徒の質問に答えた言葉が割と気に入っている。登山の時だったかな

「先生、疲れて歩けません。どうしたらいいですか?」
という質問に対して
「前に倒れてみなさい。自然と足が出るから。」
という回答だったはず。

先生にとっては単なる冗談だったかもしれないけども、今考えてみると、「自分はあきらめても、ほら体は生きたいって言ってるよ。頑張りたいっていってるよ。 」ということかもしれない。

生きる「意味」に迷ったら、体に聞いてみるのも良いかもしれない。
もちろん、ひたすら前に進めや! みたいな話じゃないですからね。

2017年11月25日土曜日

3秒、3分、それ以降

ストーリーでうるのか、物でうるのか

僕たちは紛れもなくものづくりをしてその商品をカンボジアや日本で販売しております。なのでフェアトレード、エシカルファッションなどというくくりで捉えてもらうことも多く、実際ものづくりを行うその場所や、社会インパクトについては非常に大きなこだわりがあったうえでものづくりをやっています。

そうすると特に日本で販売をおこなっていくときによく問われることが、「果たして何を売りにするのですか?ものですか? 背景にあるストーリーですか?」という話です。色々な方とそのお話をする中で、わかってきた 共通点、人による違い、そして僕たちが大切にしていることについて考えてみます。

アパレルの方には「当然ストーリーだよね」、フェアトレード好きの一般消費者には「もので売れますよ!」と言われる

人は普段みて考えているものと比べて僕たちの商品やブランドをジャッジしています。
普段から非常にたくさんの良いものを見ているかたにしてみれば、まだまだ僕たちの商品は凡百のアパレルと一緒。土俵にはのっているものの、結局14000社あると言われるアパレルと同じ商品を、より少ないお金と人材で売っていくってそれはムリですよね。むしろ、ストーリーが新しい。

一方NGOや「支援」という文脈からものをみられた方は、そのマーケットの中で本当に日本人が普段使いしたくなるようなクオリティの商品が少ないこともあり、私達の商品をお褒めいただくことが多いです。

でも、入り方は多少違ったとしても、結局「人に勧めるか」「何度も買うか」という点で考えたらあくまでも「まず真っ当な商品を出して土俵にのって」「ストーリーで差別化をしていく」という当たり前の結論しかないわけです。それが殆どの商品でできていないから、フェアトレードで成功しているのはどうしてもチョコレートとコーヒーに偏ってしまう。

「3秒、3分、それ以降」の順番を忘れない

ということで、僕たちが大切にしているのはあくまでも人が物を買う順番でものを考えようということです。それがこの言葉。

みなさんがものを買うとき、まず最初は一瞬で判断していると思うんですね。長くても3秒。そこで「カワイイ」かどうか。本当に微妙なフォルムの違いだったり、detailの作り込みだったり、色合いだったりを本当に一瞬でジャッジします。自分が取捨選択してきた商品のデータベースを蓄積して作った価値観のベクトルとの一致でという感じでしょうか。人それぞれ沢山の種類の違う「カワイイ」がありながらも、色々な人同士での共通のNGがあるように思います。

そしてその次の関門が「3分」。そこでもストーリーが入ってくる余地はありません。そこで行われるのは、「素材、縫製などのつくり、機能、丈夫さ、使用シーン」と「値段」を較べるという作業じゃないでしょうか。

ストーリーの話はやっとこの後に出てきます。買う最後のひと押しになることもあるかもしれません。ただ多くの場合は衝動的にかった後になって、「なんでこのブランドのもの買っちゃったんだっけ?」「そういえばどんなとこだっけ?」と興味をもったときにそのブランドを「好き」になるのがストーリーだったりします。

最初の二つの関門は殆ど自動的に店員の説明の前に行われるステップなので、ものと置き方でその関門を突破しない限り決して沢山の人に商品が届くことはない、それを肝に命じてものづくりをしています。

あたりまえ、だけど長い道のり。

これ、偉そうに書いてるんですが、本当にあたりまえのことです。でもクチャというカンボジアの農村で始めた工房で9年前にものをつくりはじめたときには、日本で商品販売のその土俵にちゃんと上がれる日が来るとは想像できませんでした。

クチャ村からヒカリエへ
土俵にのぼったらそこからは違う戦い方があります。それをまた語れる日がくるまで粛々と頑張ります!

2017年11月3日金曜日

続・仕事ができることより大事なこと

「仕事を一緒にしたい」と思わせる関係性を作るための2つの自覚

さて、最後に最近やっと思いが至った、関係性を築くために常に気をつけなくてはけないこと、それは自覚することです。
何を自覚するのか、それは「自分のメンタルモデル」と「場や関係性を支配するランク」の2つでしょうか。

メンタルモデル、認識の歪みを自覚する

前者はつまり思考のクセに気づくことです。U理論のダウンローディングだったり、システムコーチングで言う所の推論のハシゴだったり、まぁ認知行動療法でよく言われる事実から解釈への流れだったりが近いのでしょうか。書いておいてなんですが、それぞれをテーマに勉強して掘り下げていきたいですね。

人はかなり無意識に思考をショートカットするクセがあります。ヒューリスティックに効率的に物事を処理するための工夫です。これは気をつけないと自己認識の歪みや差別にすぐにつながります。

「彼は高卒だからXXXだよね」「おれはどうせダメだから彼が言っているのはXXXという意味に違いない」とかかなり勝手な当てつけや解釈が入っていることが多いです。 普段はそうやって物事をジャッジしていかないと意志力を使いはたしてしまうのでしょうがないのです。

ただうまくいかないとき、ここぞというときに相手の言っていることをきちんとゼロベースで受け止めたり、自分の思考の歪みに気づいたりする勇気を持つことが大事です。これが1つ目の自覚。

ランクを自覚する

で、後者の「ランク」っていうのが厄介なことでして軽く説明しますね。というかランクについてブログを書きたいなと思って今やっと到達したんですが、前説長かったですね。ランクっていうのは人間のランキングみたいな話ではなく、自分が感じる「段差」の話です。
※僕が読んだのはアーノルドミンデルの紛争の心理学という書籍でですが、うろ覚えなのでこれも勉強リストに。

みんなで話し合おうと思ってミーティングを持ったとき、その場を支配するその人たちの「属性」の差が健全な議論を邪魔することがあります。

例えば「知的レベルの差」「学歴の差」「収入の差」「被害者性の差」などなど。知的レベルの差が場を支配している例 といえば、「頭がいい人しか発言できない、深い発言だけが許される」という認識のことです。

重要なのはその差と感じているものはあくまでも「認識」であって、事実とは全く限らないということです。特に「自分は頭悪いので」と思っている人にありがちな「自分の意見は大したことないので言わないのでおこう」「とてもじゃないけど怖くて発言できない」という「認識」が起きがちですが、意外と周りの人は全くそう思っていないということはよくあります。前段の認識の歪みともからむので、まずはそれが「自分の思考のクセ」から来ている思い込みじゃないか ということを疑う勇気が必要です。

逆に、「頭良い発言を繰り返している人」だったとして、その人も自覚が必要です。ミーティングの目的にもよりますが、その発言や立ち居振る舞いが作り出しているランクに気づかないと、場や関係性から心理的安全がどんどん失われていきます。

例えば権力のある人が偉そうにしていたとして「上から目線で話されるので関係性が構築できない」というのはわかりやすいケースです。

ただ、分かりづらいケースが、「被害者意識が作るランクの差」でしょうか。「自分は被害者だから」 → 「自分の話は無視されやすい、大切に扱われるべきだ、あの人がああいう言い方をしたのは偏見じゃないか」みたいなことを自分で先に勝手に想定して相手の言うことを受け止められないことが多々あります。

いずれにせよその場の関係性や自分自身の喋りにくさ、そして人との健全なコミュニケーションを阻害する要素として、その場その場を支配する「ランク」というものがあるんだと思ってください。そしてそれを自覚することは、関係性を構築するのに役立ちます。

議論の土台のズレ、発言の土台のズレが間違った解釈をうみ、関係性を壊していくというのは多分すべての人が経験を持っていることではないかと思います。そのときにふと、お互いの共同作業として「どういうランクが場を支配しているか」「それによってどういう発言がうまれたか、抑圧されているか」「それによって自分の解釈はどうゆがんだか」ということを見つけられれば、必ず相手との関係性を良くヒントを得ることが出来ます。

気づいた人が一歩進んでその段差を乗り越えてみる、そうすると驚くほど話が通じるようになることがあるのです。

結局仕事を一緒にしたい奴って?

色々関係性やコミュニケーションについて難しく書いてしまいましたが、何か参考になったでしょうか? 自分が囚われているメンタルモデルやランクを自覚できるようになると本当にラクにいきれるようになり、相手が囚われているメンタルモデルにきづけるようになると傷つかずにその人の言葉を受け止めることができるようになります。

メンタルモデルっていうより「とらわれ」とか「呪い」とかの方がわかりやすいかもしれませんね。

結局人と真摯に向き合って生産的な関係性を築いていける人と一緒に仕事をしたいよね、そのために大事な考え方ってなんだろう、という話でした。

仕事ができることより大事なこと

「仕事ができるやつより一緒に仕事をしたいと思われるやつになれ」

20代前半で師匠から言われた言葉の中でも印象深くて、それから大事にして来た言葉です。僕自身わりとこの言葉に救われたり、深い学びをもらったりしてきました。この言葉を自分なりに咀嚼した過程をゆっくりと記事を分けて皆さんと共有できればと思います。

仕事ができるやつ ≠ 一緒に仕事をしたいやつ

「え、仕事ができるやつ=一緒に仕事したいやつじゃないの?」と思ったのが最初の衝撃でした。それも当時の僕の憧れは「お世話になっている師匠や経営者の方々と一緒に仕事をする」ということにあったので、それには「ビジネスマンとして経営者として優秀にならなくてはいけない」と思い込んでいたからです。

今考えるとそのときの僕の「優秀さ」の物差しはとっても狭くて、「思考力」とか「戦略」とかそういうことしか見えていなかったように思います。

なお、この2つのグループが必ずしも一致していないといっているのであって、仕事ができないやつと仕事をしたいよね、という意味ではないですよ。

じゃあ何がその二つを分けるんだろうか、それがおぼろげながら見えてきたのは30歳くらいになるころかもしれません。それを僕なりにまず説明するために、仕事ができる→生産性、一緒に仕事をしたい→関係性と読みかえてその関係性から考えていきたいと思います。

生産性と関係性の話

一般に生産性が高い組織と関係性が良い組織は両立するのが難しいと思われがちです。詳しくはPM理論などをみてもらえればと思うのですが、どちらを大切にするか、つまりコトに注目するかヒトに注目するかで仕事の進め方が異なるためでしょう。

まず「組織は目標を達成するためにあつまっているので、生産性が高い人が一番えらい。仲良しサークルみたいな働き方をして成果が出てない人たちは全く駄目である。」と考えている方がいたら要注意かもしれません。僕が思うに、組織人である前に僕たちは一人一人の人間です。そして人間は論理の前に感情で物事を判断しています。それを軽視して、コトだけに注目が集まるチームはプロジェクトの成果はでたりしますが、人材が成長しなかったり、チームが継続しづらくなります。

またプロジェクトの成果は水物ですから、成果が出ているときは表面に出てこなかった問題が、一旦状況が悪化すると噴出するということがあります。そういうときに関係性のないチームは、役割分担を見直したり、お互いの成長に貢献したりという機能が弱く、チームとしてのリカバリー力がないということが起きえます。

もちろん、「コト < ヒト」ということではありません。PM理論でも状況によって生産性と関係性どちらに注目するのが良いのか、という状況ありきの話ですし、チームが生き物として成長していく地図には二つの方角があるんだ、と理解してもらうのが良い気がします。

もう少し具体的に地図の例を説明してみます。例えばチームの生産性を伸ばす方角を北、関係性を改善する方角を東と考えてみてください。もちろん目指すべきは北東です。地図の使い方としては今自分たちがどこにいるのかを意識して、さらに北に向かうのか東に向かうのかジタバタしてみるという話になります。

例えば成果が必要なチームの状況だととらえ、北に向かっていこうとしてもどうしてもうまくいかない時があったとします。そのとき勇気を持って一旦東に向かってみようとみんなで考えてみる。東に行くためには時には少し南に降らなくてはいけないこともあるかもしれません。

東にいるけど、このままだと北目指さないと死んじゃうな。ちょっとチームのみんなに耳の痛いことを言ってでも、北に行くぞ、といった考え方でしょうか。そのバランスを取る中で少しずつ北東に向かっていくのだと思います。

さて、「生産性と関係性の話が別の話だし両立する話だよね」というのがまず一段階目の「仕事ができるやつ < 仕事を一緒にしたいやつ」の理解してもらうために必要なことでした。次は北東に行くのはなぜ難しいのか、について考えてみます。

生産性がなぜ関係性を殺すのか

さて北に行くと西に行きやすいよ、つまり生産性を重視しすぎると関係性を犠牲にすることがあるよ、という話は頭の片隅に入れておくと良いように思います。

僕が思うに北に行く(=コトに注目しすぎる)と、「今」「その人の存在」を受け取ることが難しくなってきます。「KPIに貢献できない人はいらない」みたいな考え方が幅をきかせてしまい、多くの場合ではチームの多様性や心理的安全性を損ねてしまうコトになりやすいです。多くの場合下記のようなことがスピードを求めるあまり犠牲にされることな気がしています。
  • KPIが短期的でありすぎること。長期的には良いことやってる人や、KPIに繋がる別の人のアクションをアシストしてる人など、短期的に測定しづらいことが軽視されます
  • 人が感情で仕事をしているという事実を忘れたり封印してしまうこと、
  • その人の価値観、多様性に対する尊重の欠如。例えば「プロフェッショナル」という言葉をひとつとっても、それが「決められた時間できっちり一定の成果をあげること」だと思っている人もいれば「できる限り全てのエネルギーを通じて多くの成果を出すこと」だと思っている人もいればはたまた「多くの人と公平に接するコト」だと思っている人もいれば「みんなが気持ちよく仕事できるコト」だと思っている人、「ボールがこぼれないように拾い続けること」と思っている人まで様々ですよね。その人の価値観や過去の成功体験・失敗体験・家庭環境によってそれぞれの人の考え方は全く違います。なので例え同じ結論に至っても全く違う考え方をしていたり、同じ事実を見ても全く違う結論に至ったりすることはよくあります。その人それぞれの立ち位置を尊重(最低限「人と人は違う」と頭で認識する)ことは良い関係を作るためには必須です
  • 最低限の心理的安全性の確保。「何はともあれ、君はひとりの人間としてうちのチームにいてくれて嬉しい」というメッセージを発することができているかどうか。Googleも発表してましたが。 ミーティングとかブレストで特定の人しか喋ってないとか要注意です。知的生産性も下がっています
やや「良いチームの作り方」みたいな方に話がずれてきてしまっているのですが頑張って軌道修正をすると、「生産性と関係性の関係性を知って、バランスをとろうね」という話でしょうか。仕事を一緒にしたいやつ っていうのは少なくとも関係性を築ける人であり、その相克に取り組んでいる人だと思います。

次回予告

だいぶ長い前振りになってしまいましたが、前段として生産性と関係性について思っていることを書いてみました。じゃああらためて後者の関係性を作れる人、作りたくなる人=「一緒に仕事がしたいやつ」としたときに、どうやって関係性を作っていけば良いのか、ということをさらに一つ踏み込んで考えてみたいと思います。

2017年10月29日日曜日

海外で暮らしたことが自分に及ぼす影響

とくに結論がある話でもないですが、海外での暮らしが長くなってきたので(9年目に入ろうかというところです)海外で自分が暮らしたことがどう自己形成に影響しているのか考えてみます。

海外にいると多様性の中で自分がわかる

旅の醍醐味でもありますが、海外で働いていると自分と違う価値観の人とぶつかるシーンが多いです。そうすると、あらためて自分が当たり前とおもっていたことが全然当たり前ではないという事実に気づかされ、自分であらためて価値観を選択したりするシーンが生まれます。卑近なところから色々な例をあげると

  • 「汚い」環境に自分がどれだけ耐えられるか、気にする人かわかって、どういう環境で過ごしたいかをあらためて考える
  • 特に仕事やその姿勢に対して「お金をもらってるんだからこうあるべき」「プロっていうのは成果を出す人」「成長をしないならいる意味がない」「組織の成功を考えるのは当たり前」みたいな意識の「高さ」が特に当たり前でもないことに気づいて、あらためて自分が目指す「プロ」は何がしたい人なのかを考える。
  • 同じようにある程度の大学を出て、上記のようなプロ意識の人たちとともに仕事をする面白さと、全然違うバックグラウンド(小学校を途中でやめてるとか)の人たちと仕事をすることの面白さとか、面白さの軸が豊かになる

海外にいる現地の方だけではなくて、現地にいる日本人や、外国人も多様なのでそこで学ぶことは多いです。いかに東京にいる時の自分の交流範囲が狭かったのか、ということはみにしみました。

海外にいると天狗にならなくてすむ

これは社会起業的なことをやっている人に特有のことかもしれませんが、日本にいるとよく「人のためになることをやっていてすごい」とか「若いのに」「起業するなんて」といった、社会的なインパクトとはあまり関係ない属性や意図について褒めていただくことが多かったような気がします。それはそれでありがたいことなんですが、自分の事例でいえば大したことをやってなくても講演の依頼とかがきてしまったりします。もちろん全力で伝えたいことを伝えるのですが、一番怖いのは「あれ、なんかおれすごいのかな」と勘違いする可能性を感じることですね。

たいていの人は結果を丁寧に評価してくれるわけではなく、そんなことよりも「19の時に起業して」「東大を中退して」「カンボジアに長く住んで」「団体を15年続けて」みたいなわかりやすいことを見てくれます。あと、良かれとおもって励ましてくれているというだけです。

カンボジアの人のためにどれくらいなったか、とか、ましてやSROIが前年より良くなったね みたいな話は日本で普通に人と接すると失いがちな視点です。これはまさしく自己認識のガバナンスの話で、低すぎてもダメなんですが、調子に乗ってもダメなんですよね。今は「俺ってすごいのかな」と少しでも過分に思った瞬間から体の細胞が死んでいくような、自分の色が灰色になっていくような恐怖を持っています。

海外にいれば「東大なにそれ?」「(カンボジア人からしたら)カンボジアに9年住んでんの?ふーん、ありがとう」「かものはし、なにそれ?」っていう話なわけでこれは非常にありがたく20 - 30代を勘違いせずに送ってくることができています。

「日本」と乖離していく

これは良い影響とも悪い影響とも言い難い非常に議論の余地があるところかと思います。ただ、海外にいると「日本」というものを客観的にみるようになるし、たとえば震災や原発問題、高齢化問題といった日本における「社会で共有する痛み」みたいなものから影響を受けにくくなります。

日本に住んでいるみなさんが今カンボジアの民主主義がややピンチで、といわれても全くピンと来ないのと一緒だと思います。「日本人だから」という気持ちは一部ありつつも、震災の揺れをリアルに経験していない、ということが自分の人生の選択に及ぼす影響は大きいのではないかとおもっています。

さまざまな友人たちが政治だったり震災だったり日本のイシューに痛みや怒りをもっている姿をなんとなく憧れや応援にまわってしまうこの感覚。逆に世界の問題やカンボジアの問題に僕の人生を使え、とか、そこから日本にさらにもっていけるものはなんなのか考えろ、というメッセージなのか、と思っています。

いずれ日本にもっと高い頻度でいかなくてはいけないかもしれませんが、今海外にベースを持つ中で、自分自身が感じた影響について考えてみました。

2017年10月19日木曜日

スタートアップとレガシー、新幹線とブレーキのアウフヘーベン

責任の取り方、それが仕事だ

大ベテランの記者の方と食事をする機会があり、そこでおっしゃって頂いたことが、「万が一のときにどうするの?ということを考えずに、リスクを見ずに進むということの怖さを挑戦する人に伝え続けることがベテランの役割である」ということでした。

これはかものはしの理事会で起きていることにも非常に似ていて、「かものはしの経営はなにやら200km/hで走る新幹線のようだ。だから僕はブレーキになるよ」とおっしゃっていただいている大ベテランのNGOの方のセリフと一緒だなと感じました。

全肯定でも全否定でもなくアウフヘーベンを模索する覚悟

リスクを見すぎては挑戦できない。挑戦しなければやがて茹でガエルのようにゆるやかに死んでいく。でもリスクを見なかったら万が一の時に本当に地獄を見てしまう。そのジレンマのなかで僕らは生きています。イノベーションのジレンマだって、大企業とベンチャーの役割分担だってそういうところがあります。

地獄をみるといったときに、単に自分がつらいだけじゃなくて、従業員や家族を路頭に迷わせるかもしれない。記者の方であれば、自分の書いた記事で人が死ぬかもしれない。それくらいの責任を自分の仕事の先に見ているかどうか、これはベンチャーだろうが大企業だろうが同じことです。例えば医療的なことでデマが載っているキュレーションサイトをつくって、それを信じて人が死ぬことはありえる。単に記事を変更、削除、閉鎖すればよいということではない。

とすると、新しい時代に対応しながらも、万が一の時に死なないようにするためには、アクセルを踏みながらブレーキを踏まなくてはいけないと思うことがあります。絶対にこの事業はリスクをとっても成功する、と思いながら、失敗したときのことを冷静に検討しておく自律的なマネジメントをする必要があります。新しくやることの難易度が高くてエネルギーが必要な時ほどこれが本当にしんどい。

そして万が一のケースになっても、もう一度更地からやり直せば良いんだ、という覚悟と、そんな時でも絶対に人は殺さないぞという覚悟、それも両立しなければいけません。それもしんどい。

どのように仕組みとして、個人としてアクセルとブレーキを統合するか、それが大事な問いです。そのときに大事なのは、
  • お互いのメンタルモデルを乗り越えて、その場で対話する
  • その時、どちらが絶対的に正しいか、とか 「要はバランスでしょ」という安易な相対主義に陥らないように原則を見つめる努力をする
  • 自分自身がやってきたこと、大事にしていることに、自分ができないこと・怒ることに興味と自信を持つ
  • 挑戦者からは、特にリスクとその怖さを体感した年配の方の蓄積を、現実レベルだけではなく、その感情や構造とともにきちんと好奇心を向けてみる
  • そのアドバイスも勝手に解釈するのではなく、体にしっかり通して見た上で出てきた違和感に向き合って、それを対話に使っていく
  • 年配からは、若い奴は仕事が軽くてイカン、何言っても聴かないし、 と思うのではなく、あとでボディーブローのようにしっかりと体に染み渡る丁寧な伝え方を模索する ということじゃないでしょうか。そうすると、アドバイスの表面ではなくて、本当に次の時代に繋げたい普遍的な価値観をgiftとして受け取ることができるようになるでしょう。そして自分たちが本当に大事にしてきたことから、これからも大事にしていきたという事柄が切り離して考えられるようになります。
お互いが臓物をとりだしてテーブルに並べて、きちんとそれを見つめて、自分ののろいも断ち切って、お互いの臓物を味って、また選んで、自分の腹のなかに一つずつ納めていくようなそんな相互のプロセスが必要なのです。
それがアウフヘーベンということかと思っています。

広がる夢とブレーキ:SUSUの場合

例えばの話。
前提:ライフスキルトレーニングはカンボジアの全土でインフラのように提供させるべきだと僕は考えています。そうすると、カンボジアの公教育にライフスキルトレーニングを取り入れてほしい。教育省と連携がすすんだとしても、トレーナーを育成しなくてはいけない。(多分6000人くらい)。トレーナーって簡単に育てられるっけ?

→夢:よし、教師育成にイノベーションをおこして、active learningとしてうちのコンテンツを提供できる教師を「2週間」で育てます。

→ブレーキ:そんな新人の教師が現場にはいって何かあったらどうするんだ。

→反応してしまう例:いやいや、じゃあ逆にどうやってその数の教師を育てるんですか。bracだって10日くらいで教師を育ててるし、きちんと作り込めばできるんですよ。その後のフォローアップが大事で、そこはITとかシステムを使ってやりますので。大体旧来的なteachingスタイルの考え方にとらわれていない人を教育した方が早いんです

→そうじゃなくてそのブレーキを一旦噛みしめる:たしかに教育ってコンテンツだけではないし、ライフスキルを教えるのに、その人自身が成長してなくては難しいかもしれない。プロセスじゃなくて、人格や経験でなんとか現場を支えている教師の見えない活動のこともきちんと考えなくてはいけない。。。どうやって自分たちの夢や事業のペースと同時に達成していけばいいんだ??

→andの解決策を考える:学校というシステムをもう少し複合的に考えるようなアプローチだったらどうだろう。全ての学校に生徒の一人一人の姿を大事にできるような教師や、ライフスキルとして見本になれるような教師、地域の人たちがいるはず。あくまでファシリテーターとしての教師を送り込む方に特化し、既存の教師や地域の人たち、親との関係を紡げれば両立できるかもしれないぞ!

あくまで思考実験ですが、上記のように考えるのが良いように思っています。ポイントは繰り返しになりますが、本気で心配してくれている人たちの気持ちを受け止めること、好奇心を向けてエッセンスを抽出するように努力する ということででしょうか。うまくいけばさまざまな世代の蓄積したエッセンス(本質)をgiftとして受け取ることができるかもしれません。

誰に真摯でいたいか。あるいはブレーキのない新幹線に人をのせるのか

僕たちが真摯でいたいのは現場で教育を受ける生徒であって、ぼくたちの社会的経済的成功でも、仮説を検証することでも、成長をしていくことでもないはずです。もちろん後者も大事ですが、前者を目指すといつのまにかちゃんと美味しくご飯が食べられるようになっていたという話ですよね。

そのときに、今まで生徒に真摯に向かい合ってきた先達の声、方法論は違えどものすごい参考になることがあるはずです。自分たちの思いも大事にしながらそういうひとのgiftを受け取れる人でありたいなと思います。先人をrespectするっていう小学校一年生くらいで習う話がいかに難しいか、ということでもありますが。

ところでそもそも、ブレーキがない新幹線に乗りたいと思う乗客はいるでしょうか? 早いだけじゃダメ、リスクをみて止まるだけじゃダメ、きちんと運転できる新幹線をめざしたいですね。