2018年1月11日木曜日

縦と横の多文化共生のための「謝る力」と「学ぶ姿」

世界を席巻するポリコレ、表面的な振る舞いを変えるだけでは解決できないこと

パワハラ、セクハラ問題、ポリコレのこと、例えば芸能界や角界の悪習が世間の目にさらされ批判されることなどがあちこちで起きている。

そんな中、自らを顧みることなく、どうやら安全な側・正解でいる側をいち早く判断して、他人を叩くための道具としてポリコレを活用しているような人になってしまわないように気をつけたいところである。残念ながらそういう誘惑は常にある。

そして人間の感情やもしかしたら生理的な嫌悪感のことを無視してポリコレであれば良いと蓋をすると、世界が分断化するのではないかという不安すらある。表現や差別的な言動というのはあくまでも表面的な兆しであって、その下にはそれが起きてしまう構造とメンタルモデルがある。

単に自分が無知だったため、知らずに人を傷つけてしまったことはきちんと謝って行動を改めれば良い。ただ正義によってはそう簡単には受け入れられないような鬱屈とした感情と向き合わなくてはいけないこともある。

それを紐解くには、自分が持つ抵抗感や嫌悪感と対峙することしかない。それが自分のトラウマだったり、親との関係だったり、シンプルな誤解(もしくはその間違いを認められない弱さ)に基づいていたりするわけだ。

残念ながらその紐解き作業は表現を規制したところで自動的に起こるわけではない。しかしその作業を進めていかないと「表面的にはおとなしくせざるを得ないが、まったく納得していないひとたち」が大量生産されるのである。

例えばその作業の中で自分のアイデンティティを脅かすような疑問すら出てくるかもしれない。あくまでも想像の事例だけども「自分がホモフォビアなのは自分のバイセクシャル性と向き合えないからではないか」とか、「セクハラに怒りを感じるのは、自分の性的衝動を我慢していることに向き合えないかもしれない」とか。その怒りは投影だったり、悲しみだったりする。

例えば「どうして自分はこんなに苦労をさせられているのに、あいつはずっと勝手なことばかり言っているのか」と怒りをもったとき、敵は自分の「苦労をさせられているという認識」という被害者性であって「あいつ」ではない。

本当に持続的な多文化共生社会は一人一人が自分の中の怒りや悲しみに折り合いをつけていく先にあるのではないか、と思う。

横の多文化共生。迫り来る正義を自分の体に通すということ

セクハラの撲滅やポリコレといったような水平的な文化同士の混じり合いはインターネットやグローバリゼーションの中で急速に起きている。ハリウッドでセクハラが断罪されれば、1年以内に日本でもそれは断罪される。少なくともセクハラは必ずなくならなくてはいけないことだから、この動きは僕も共感できることである。

ただ、セクハラがおきなくなっても、例えば男性一人一人の性的な衝動や抑圧感、性的な劣等感(というんだろうか、自分の男性としての魅力に対する劣等感)がなくなるわけではない。モテたいという感情、でも立場を利用して人を誘惑したりしては絶対いけない、という正義。人は感情の生き物なのだからこそ、そういう痛みを乗り越えて、理性で自分を乗りこなすのだ。

正義をアドボカシーすることは本当に大切だ。ただ同時にその痛みや感情に好奇心を向けられないそういう正義は単に人を追い詰めることになる。例えばこのまま表現の規制が進んだらどうなるんだろうという不安を消化するスペースがないまま、表現への過剰なダメ出しが進むことはいたずらに人を対立させる。アドボカシーのAGENDAが正しければ正しいほど、人にinquiryすることとのバランスに気をつけるべきである。それは最近下記の記事に書いてあることで、非常に共感した。

THE DAWN OF SYSTEM LEADERSHIP by PETER SENGE, HAL HAMILTON & JOHN KANIA

ルールが変わりつつあるんだよ。それは例えばアメリカでこういう表現が沢山の人をこう傷つけたから、意図はどうあれ結果としてその表現はもう許されないんだよ。 ということが、その人が受けいられるように伝えていく工夫が必要だ。受取手の過去を無邪気に断罪する正義の押し付けは、持続的な多文化共生を考える上で障害になると思う。

縦の多文化共生。変わり続ける世代のアタリマエ

もう一つの多文化はいわゆる世代間ギャップである。

女性の社会進出、人権思想や民主主義などいくつか市民権をえている思想が世の中を席巻して行く。ポリコレもそうだけど、15年前に許されていた表現が突然許されなくなることがある。その流れは基本的には不可逆である。正確にいうと、(カンボジアの中国化やなんか見ていると本当に不可逆かは疑問があるものの)その流れを不可逆にするために戦って行く人が多く、僕もその1人である。

その時代の断層が縦に積み重なって行く。同じ地域にいても世代間で文化が違う。

僕にとって身近な例で言えば、カンボジアの都市化・産業構造の変化なんかがまさにそれにあたる。都市化と工業化が進むから突然農村人口が減って行く。たとえ農村に残りたい気持ちはあっても、個人には抗えない大きな動きである。これからもっともっと核家族化や生産性の強化が進み人と人の距離は変わっていく。

カンボジア人が子どもに優しいのはいつまで続くか

たとえばすごく主観的な意見だが、今カンボジア人はすごく子どもに優しい。お店で赤ちゃんが騒いでも店員が楽しそうにあやしてくれる。(これはすごいことだ。赤ちゃんの泣き声っていうのはその本質からして不快に聞こえるようにできているわけで。)

その背景には、まず兄弟の人数が多く子どもの面倒を見ることが多くの人にとって当たり前であることや、農村の地縁の中でほかの赤ちゃんの面倒を見ることがあったり、はたまたサービス産業の生産性が厳しく問われていない中で暇な店員が多いということであったりに基づいているからかもしれない。

しかしそれはきっとこの先カンボジアから失われていく。

例えば「子どもをなぜ4、5人も産まないのか」と何気なく聞くようなカンボジアの文化は急速に失われている。それは都市部での出生率は急速に低下しているからだと思う。その背景には、みんなできれば高校、大学に入れたいと思い始めたことかもしれないし、女性の社会進出にあるかもしれない。ある程度当然の流れだし止める必要もない。

カンボジアを好きな1人の人間として、勝手に国の未来を想像して、郷愁を感じるという独り相撲だけども。一縷の望みとしては、産業構造の変化や人口の増減ということがあまりにも急速に起きていることと、他国の情報が本当にリアルに感じられるようになった現代においては、カンボジアは日本が辿った縦の変化を必ずしも経験する必要はないかもしれないということだろうか。

まずは謝る力、学ぶ姿勢を鍛えることから

カンボジアのシェムリアップという街に住んでいて感じることだが、縦と横の多文化共生が本当に急速に進んでいく世の中である。

まずその流れの中で自分ができることは何か。それは思うに「謝る力」と「学ぶ姿勢」を鍛えることではないだろうか。

「そんな意図はなかったのに」多文化のなかで人を傷つけてしまうことは残念ながら誰にでも起きうる。僕も沢山の人を傷つけてきたしまだ気づいていないこともたくさんあると思う。そんなときにきちんと謝れることが大事だと思う。それは下記の記事を見て学んだこと。

「それ差別ですよ」といわれたときに謝る方法(リンクを張ろうとおもったのだが非公開になってしまっているので辞めておく)

迫り来る正義や他人の価値観、そしてそこで感じる痛みや怒りから抉り出される自分の過去やトラウマ。それと折り合いをつけていくには、しっかりと目の前の人との人間関係を続けていきながら、学びを止めないことではないか。もちろん学びは1人で続けられるものではない。信頼できる人やコーチと少しずつ進めていくのだ。

友人の皆さんへ。自分が何か間違った振る舞いや表現をしていたらどうか恐れずそれを指摘してほしい。僕には学ぶ力がある。少なくとも、自分は学べると信じることはやめない。

願わくばより持続的な多文化共生が進んでいけるように、一人一人に寄り添ったり学びを続けていく流れを加速させていきたい。それがライフスキル教育を進めていく僕の願いでもある。

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